● 大正2年(1913年)12月1日 栃木県芳賀郡二宮町(物部村)に、農家の三男として生まれる。
本名:廣司(ひろし)
肥沃な関東平野のほぼ真ん中、筑波山や日光連山を遠望する豊かな自然に恵まれた環境で育つ。
● 昭和初頭、上京。
上野の岩倉鉄道学校に入学したものの、絵への情熱が捨てられず、画業に専念することを決意する。
川端画学校卒業。
新聞配達で収入を得、学校に通っていた。
新聞の束を肩紐で抱え、走って配達していたらしい。。
遊郭(吉原か)なども廻っていて、御姐さんによく声を掛けられたという。
● のちの日展審査員で、花鳥画を得意とする日本画家 森白甫 の最初の弟子となり、本格的に画業に専念する。
雅号:菲路志
7年間の内弟子生活後、上野池之端に独立し、白甫の師、荒木十畝の主催する読画会展 で受賞を重ねる。
雅号:草羊
● ・・・が、時代は大戦に突入し、戦争一色の世になる。ほどなく蒲田の軍需工場に徴用され、その後応召。
戦地には赴くことなく、宇都宮の陸軍連隊で終戦を迎える。
・・・最愛の弟を南洋の戦地で亡くす。
その間に、蒲田も上野も焼け野原となり、終戦後は故郷に戻って、再出発。
● 以後、日本美術展覧会(日展)に出品を続ける。
雅号:晄司→晃司
昭和31年、練馬区上石神井に新居・アトリエを構え、
伝統的な花鳥画に現代的な叙情性をたたえた作品を、次々発表する。
(日展17回入選、日春展で受賞、日展会友)
・・・・日本各地にまだ力強く息づいていた自然の中でそれぞれの生を神々しいまでに淡々と営んでいた、朱鷺・白鳥・鶴・かもめ・ムササビ・ヤマドリなどを主役とし、深い畏敬・愛惜の念を持って自然と対峙することによって生み出されてきた作品群であった。・・・・
● 昭和55年 師 森白甫 逝去
・・・晃司が書いた、弔辞(入門のいきさつ、内弟子の様子、師への思いが書かれています。) がありました。
● その後、60代から煩わされていた白内障の手術が大きなきっかけとなって、団体展の大作中心のあり方から
気持ちが解き放たれ、より身近な自然との穏やかなかかわりの中にある美しさを求めるようになる。
その中で、『日本画の描きかた−人生を楽しく豊かにする』(金園社)を刊行する。
また、練馬区美術家協会委員・美術館運営委員として、練馬区立美術館の設立・運営等に参画。
● 誰でもが普段よく目にすることのある、何気ない花々や鳥たちの、可憐でいとおしい「美」を、けれんみのない
素直な眼で捉え、絵画化し続けていった。
・・・・・
● 平成16年(2004年)3月25日 永眠 享年 90歳
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